CoffeeAndBooks's 読書日記

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ヴァレンヌ逃亡 マリー・アントワネット 運命の24時間

 凡庸で愚鈍な王様と放蕩に明け暮れる王妃、というイメージが最初に刷り込まれていたルイ16世とマリー・アントワネットだったけれど、歴史の勉強をしていると、実はそうではないように思い始める。

 新しい資料を基にしたという『ヴァレンヌ逃亡』から、どうしてルイ16世が現代の我々から見てぐずぐずしていたように見えるのか、少しわかってくる。王権神授説の世界で王座にあるルイ16世は、民衆が自分を敵視することが理解できない。そして、この考え方もある時点までは正しい側面もあり、民衆にとってもある時点まで国王は畏敬の存在だったようでもある。もしかすると、このヴァレンヌ逃亡がなければ、もう少し王権は長持ちしたかもしれない。とはいえ、天寿を全うするほどに長持ちするのかは、少し難しい。と見立てられたから逃亡も企てられたのだ、とも思う。

 それは、フェルゼンがマリー・アントワネットの愛人という立場から企てたものではなく、スウェーデンの国家の立場があるように見えることからも、現実的にみるとフランスにおける王政は危険な状況にあったのだろうと。フェルゼンが大貴族とはいえ、ここまでの準備を私人がすることは難しく、いろいろな思惑を持った支援者がいたことは想像に難くない。

 しかし、ルイ16世には、そこまでの危機感がないために、物見遊山的な旅程となり、結果として失敗に終わる。フェルゼンを途中で外したことが大きく影響しているように見えるけれど、自分の王座を安泰だと思っているルイ16世に対して、きっとフェルゼンの危機感は伝わらなかったのだろう。嫉妬もあるかもしれないけれど、シンプルに行動を共にするのがうざい、と思ってしまったのかもしれない。愚鈍でおとなしい王様のイメージと異なり、意外に自己顕示欲が強そうなルイ16世像が本書で浮かんできたので、妻が外国の一貴族を頼り、その一貴族からあれこれ指図されることに嫌気がさしても不思議はない。

 本書を読んで以来、ルイ16世に対するイメージは大きく変わり、とても面白い一冊だと思う。ちょうど、帝国劇場でマリー・アントワネット(こちらの遠藤周作氏による原作ではルイ16世の影が少し薄かった)も上演中であるし、秋の夜長の読書にはおすすめ。

   それにしても、この有名な逃走劇。結末は十分にわかっているのに、やきもきしながら読み進めさせられる描写は、エンターテインメントとしても素晴らしい。

 

 マリー・アントワネットが日本の漆器をコレクションしており、その審美眼から彼女は教養人だったのでは、という中野京子氏の視点はなかなか興味深い。マリー・アントワネットの審美眼がどうかはさておき、この時代に漆器がヨーロッパの宮廷で注目されていたというのは、日本人として少し嬉しくなる。