CoffeeAndBooks's 読書日記

日々の読書を記録しています

SHE SAID

 人によっては閲覧注意の映画かもしれない。直接的な暴行シーンは含まれないけれど、被害者への取材を描く描写だけでもフラッシュバックは起こる。

 本作はハリウッドにおける女性に対する性的搾取を取材するジャーナリストの物語。実話に基づくため、ある程度の筋書きはわかっているけれど、それでもずっと緊張して見入ってしまう。女性を取り巻く環境が過酷なのはどこの国も同じ。

 仕事の話だと思って希望を持って部屋に入った、アタリマエのことだと言われて気にする自分がおかしいかもしれないと戸惑ってしまった、という女性側の前提も同じ。少し様相が異なるのは、米国企業は被害者をセカンドレイプする代わりに、声を奪う示談をする。しかし、良心を持つ人たちと、この状況に怒りを持つ人たちが真実を明らかにしていく。

www.nytimes.com

 意外にも映画館では単身で鑑賞している男性が数人いた。彼らが、「最近はちょっとしたことで女が騒ぐ」ではなく、同じように頭と心を持つ人間というカテゴリーの存在が性的な嫌がらせによってどのような影響を受けるか理解して、同じような事件が起こらないよう協力するタイプの人たちだと良いなと思う。取材を受けた被害者の語る、自分に価値がないから性的な嫌がらせを受けたのでは、というコメントは多くの男性に理解してほしい。男性は「触ってもらえるうちが花」というようなことを今でも被害者に投げつけるけれど、女性は「価値がないから触られた」と感じる。なぜなら、職場に私たちは女としてではなく人間として向かうから。職場にある仕事は、ジョブディスクリプションに書いてある仕事だと信じて向かうから。

 きっと関心はないと思うけれど、過去の出来事を告発する女性に対して、「なぜ今いうか、を考えるべきですね」としたり顔で語る人たちに見てほしい作品でもある。被害を受けた直後にはショックで語れないことは多々あるし、表に出せるまでに並々ならない葛藤がある。それでも、この先の被害者を少しでも減らすために、なかったことにさせないために、と考えて発言する人もいることを理解できるかもしれない。

 

Kaymak/カイマック

www.hollywoodreporter.com

東京国際映画祭に出展されたマケドニア人監督による『カイマック』。ミルチョ・マンチェフスキといえば、『Before the rain』『Dust』しか観ていないのだけど、時間の交差する不思議な構成が魅力的だった印象と、旧ユーゴ出身ということで地域特有のアイデンティティについて考えさせられた記憶が残る。

しかし、本作は、マケドニアという国の中の、同じマケドニア人同士の格差や代理出産という裕福な人間のエゴが描かれており、どこに行っても同じような問題を人は抱えるのだなと思わされる。もちろん、地域性によって苦しんでいる国でもあるけれど、いま監督が描きたいと思うのはロシア侵攻に伴う危機感でも、緊張するセルビアの問題でもなく、格差である、と。

以下は一部ネタバレ。

本作は、高級アパートメントの上層階に住む裕福な夫婦+妻が連れてくる若い女性と、そのアパートメントの窓から毎日のようにタバコの吸い殻を投げ込まれる家に住む中年夫婦とアクシデントで同居を始める同世代の女性、という男性1人+女性2人の3人2組の物語。二組の生活圏は完全に異なり、交差することはない。唯一の交差が、投げ込まれるゴミ。

個人的に印象に残ったのは、上層階の生活では胸にフォーカスがあたり、地に足のついた生活をする3人の生活では足にフォーカスが当たっているように見えたこと。前者は、出産が一つの重要なテーマでもあったので、その象徴かと思ったけれど、後者は監督によれば大きな意味は(少なくとも意識的には)ない、ただ、意識していないからといって意味がないのではなく、何か心のなかに意味があるかもしれない、ということ。

なお、このカイマックというのは、濃いバターのような、クリームのようなスプレッドで、バルカン半島では広く食べられるソウルフード的なもの。そして、カイマックを集めるというのは、物事のよいところだけを取ろうとする行為、であるらしい。これを聞くと、因果応報の寓話的な映画。ではあるけれど、因果応報ですっきりするというよりは、なんとも切ない気持ちになる。これは、どんな嫌な人間に見えても生活レベルで接したら嫌なやつはいないよ、ということなのか。映画祭、せっかく監督に質問をぶつけられる機会なわけで、Q&Aセッションはもう少し長いといいな。

 

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ブエノスアイレス/春光乍洩

20数年経って再会した映画。4Kリマスターによって美しくなった画面、特にファイがボートに乗っているシーンの水面の美しさに感動。ウォンカーウァイ、クリストファー・ドイル、と言えば映像の美しさとスタイリッシュさ。全体的に薄汚れた感じの風景なのに美しくてスタイリッシュ。そこは変わらないけれど、他の作品に比べて本作は人間関係がシンプル。

香港からの旅行者であるゲイのカップル、ウィンとファイ。そして、台湾からの旅行者であるチャン。全員が地球の反対側で文無しになり、ファイはタンゴバー、中華料理店、精肉工場で働きお金を稼ぎ(彼には現地での生活費以外にも稼ぐ必要性があった)、ファイとチャンは中華料理店の同僚として知り合う。一方で、ウィンはパトロンを見つけて過ごす。考えてみると、レスリー・チャンはどの映画でも「定職につかない」役をしているような気がする。浮世離れしたところが魅力ではあるけれど。他の登場人物は何かの事件(ウィンが怪我をしたり、ファイが職場で喧嘩したり)の必要性によって登場するけれど、関係性としては、ウィンとファイ、ファイとチャンの間でしか進展しない。地球の反対側にいる、現地の言語を話さない旅行者たちの物語。

そして、時代背景。香港返還直前の物語で、返還に関する各種の質問に対するウォン・カーウァイの回答はこの映画らしい。

チャンが南極の目前に到着するのは1997年1月。

ファイが地球のこちら側に戻るのは1997年2月。

彼らは香港に留まった(他に選択肢がなかった)人々、カナダや英国を目指して出ていった(またはその選択肢を持った)人々を投影した存在でもあったのだろうか。香港返還に関して、色々な不安やフラストレーションが香港人にはあって、実際にレスリー・チャンもカナダへの移住準備をしていた。その不安やフラストレーションを抱えて生活を続けるのはお互いに幸せを感じられないのに離れられない不健全な恋愛を続けることに似ているような気がする。一度、離してみると、思いの外に前向きになったりもする。そして、ファイが台北でチャンが幸せなのは「いつでも帰ることができる場所を持っているから」と気付いたところは、香港を離れるかどうかは別にして帰れる場所があれば幸せということなのか。そして、会いたいと思えば会える、というメッセージ。

とりとめないけれど、なんとなく、この映画を改めて観て、すべては自分の考え方ひとつ、という気持ちになってきた。そもそも、ウィンとファイが一緒に居続けた期間も、前半は「怪我をしているウィンを放ってはおけない」、後半は「パスポートをファイが返さない」という理由付けがあるように見えて、遠い異国の地で文無しになっても生活できる人々にとって大きな理由ではないような理由で一緒にいる。段々と険悪になって、居心地が悪くなって、それでも離れられない関係は存在して、なにか一緒にいる理由があると安心する。でも、いつかは破綻する。人生のあらゆる局面に共通すること。

ファイは断ち切ることで前に進むことにしたのかと思ったけれど、「やり直そう」がキーワードだから、いつかやり直すことになるのだろうか。

 

 

魂のまなざし/HELENE

フィンランドの国民的画家ヘレン・シャルフベック。彼女の人生のうち、忘れられた画家だったシャルフベックが再発見された時期を切り取り、母との関係、彼女の人生に重要な意味を持つ友人たちとの関係が描かれる。美しい挫折と復活の物語。

1862年生まれのシャルフベック(1946年没)、舞台はフィンランド内戦の前後だから1918年頃ということで、いまや連立政権党首が全員女性で、男子が『僕、男の子だけど党首や首相になれる?』と不安を持つくらいのフィンランドとはいえ、家父長制の世界。再発見後の個展で多くの絵が売れたあと、本来なら娘の稼ぎは家長のものだけど『分配してやる』と兄が言ってくる光景を観ると、これは映画の本質的なメッセージではないものの、フィンランドの100年はものすごいものだなと思ってしまう。

さて、そんな家父長制の世界での母子関係について。私自身も母との関係が良好とは言えないけれど母の面倒を見ないわけにはいかない状況にあるので、見ていて苦しくなった。娘の生き方を否定し、兄をかわいがり(当時の価値観では自然なことだったのだとしても)、それでも兄ではなくシャルフベックが世話をする。まあ、どうにもならないのが血縁というものではあるけれど。

そんな環境に生きるシャルフベックを常に支えるのは、同じく芸術家で若い時分からの友人であるHelena Westermarckと、彼女の絵画のコレクターであり後に彼女についての著作を記すEinar Reuter。Einar Reuterとの出会いからの一連の出来事は、男女逆にすると割と世の中に起こりがちな悲喜劇かなとも思うけれど、最後になぜその境地になれたのか、というところは多く語られない。少し余白が多めの映画。

www.bunkamura.co.jp

 

 

映画を早送りで観る人たち

ニュース番組は私も1.5倍速などにしがちだけど、なぜかドラマや映画に対してはそれができないでいる。しかし、最近は倍速視聴だけでなく、会話のない場面はスキップしたり、事前に仕入れた盛り上がる箇所以外はスキップしたり、という見方があるらしい。

セリフですべて説明してほしい人のためにセリフが丁寧になり、結果、セリフのない場面はスキップされる、となると、それは映像でなくても良いのでは?という気もしてしまうが、とにかく消費しなくてはならない人たちはセリフをスキップして大量のコンテンツをこなすものらしい。タイパという新しい言葉を知り、気持ちはわかるけれど、寿命が伸びて、家電やグローバル分業のおかげで各人が生活のために使う時間も減少した現代社会において、これは少し寂しいなと思う。学生が忙しいというのは理解できるけれど、その楽しみ方をおとなになっても継続するのは少し悲しい。歴史の蓄積によって触れたいコンテンツが多すぎるという側面は私も日々感じているので、手っ取り早く内容を味わえたらな、と思うことはあるのだけれども。

もちろん、コンテンツをどのように消費するかは個人の自由であって、他人がケチをつけるのは筋違いだろう。映画を早送りで観る人たちは彼ら彼女たちの楽しみがあると思う。同世代の映画が好きな人たちと会話しても、プロの評論家のような人以外だと、共通の映画を見ていることが少なすぎて盛り上がらないことが多々ある。たいていの勤め人だと、月に2~4本くらいしか映画館には行かないし、休日にビデオ視聴するにしても旧作を思い出しながら見ていたりすると、おそらく世に出る作品のうち触れられるのは数%なので、重ならないのも無理はない。一方で、話題になる作品を一通りはこなしている人たちだと、「私も見たよ」と会話することができる。ただ、スキップしたシーンに重要なシーンが含まれていても『自分には気づけないので、そういうのはプロに任せればいいやと思っちゃう』という視点で見ていると、「私も見たよ」以上の広がりが楽しめなさそうだし、先に誰かの評価ありきで鑑賞することが常になると、自分の意見を表明して議論を楽しむことができる相手かどうかを確かめてからしか語り合えなくなるのかもしれない。そして、時には掘り下げた話をしようとする人は疎まれ、誰もが表面的な会話しか許容されなくなってしまうかもしれない、と思うと、華氏451度の世界みたいで少し怖い。

 

Maid

大学進学を目指す若いシングルマザー自身による実体験が綴られた一冊。

著者はシングルマザーとして子どもを育てながら大学に進学するため、家政婦を職業とする。カタカナ英語の感覚だとメイド=富裕層の家庭でサーブする女性を想像してしまうけれど、掃除だけを請け負ってくれるサービスもメイド。学業や職歴によって武装できない人々のギグワークとして、比較的メジャーなようで、貧困への対処についてのTed talkでも困窮している家庭の主婦たち(配偶者がいる点がMaidの著者とは異なるものの境遇は近い)が集まって始めたビジネスも家庭やオフィスの清掃業だった。

Mia Birdsong: The story we tell about poverty isn't true | TED Talk

本書の内容としては、いろいろな家庭を回って主に掃除を行うなかで出会った人々や日々の生活の中で接触する人々について、そして、彼らとの交流から得た感情や彼女自身のバックグラウンドが語られる。

特に衝撃を受けたのは、Food stampのような困窮している人々へのサービスの受益者に対する他者の視線。日本で生活保護を受ける人たちに対する視線に近い。アメリカはキリスト教精神で助け合うことが基本だと聞いたことがあるのだけれども、そんなことはなくて、福祉に頼る人々を怠惰な人々とみなし冷たくする人は多くいる。中には、彼女のショッピングカートを覗き込んで「どういたしまして」と言ってくる人も。もちろん、そんな人達だけではなく、彼女に対して親切な人もいるけれど、一部の心無い振る舞いを知るだけでも悲しくなる。自己責任論の世界は、ある程度自分を律するためには必要かもしれないものの、生活を立て直そうと必死な人々に「今の境遇はあなたの選択、あなたのせい」というのは随分と乱暴だ。著者はきつい仕事やお金がないことだけでなく、こうした他者の視線にも苦しむ。

また、彼女の家庭も複雑で、両親からの経済的なサポートを受けることは難しいし、精神的なサポートの面でも両親との関係も健全とは見えず難しい状況。日本で最近言われている親ガチャで言えば、彼女は少なくとも当たりではない。親が犯罪者でない、定住している、人種を理由に殺されることはない、そして大学に進学する選択肢を知っている、という意味で最も厳しい状況には置かれていない。とはいえ、親の資金で大学に進学できる人や親に子育てを手伝ってもらいながら生活を立て直せる人々に比較すると厳しい状況にある。若いうちに自立を強いられた上に、自分が守るべき子を抱えて生活しながら大学進学を目指すというのは、想像するだけでも大変なことだ。

それでも、彼女は不満は表しつつも仕事を続け、ついには大学に進学する。サクセスストーリーの一種としてもパワフルな一冊。だけど、私が本書をおすすめしたいのは恵まれた境遇にあったり、それを自覚していない『努力して普通の暮らしを手に入れている』すべての人。私達が自己責任論を振りかざしたくなったときに、相手がどんな境遇にいて、何を思っているのかを知るべきだと思う。

 

 

アウシュヴィッツで君を想う

 ユダヤ系オランダ人医師が残したアウシュヴィッツでの経験。あとがきによれば、これは回想ではなく「戦争が終結する前に」「収容所の中で」書かれた文章である。そのため、記録として詳細で、その場その場の会話や感情も含めて伝わるように思う。

 作者は妻とともに収容されており、妻は人体実験の対象を集めた実験棟に収容される。彼女が実験の対象にならないよう、作者は終戦の間際まで手を尽くす。読んでいるうちに、やはり作者とその妻のフリーデルの無事を願い、一喜一憂してしまうけれど、同じように生き延びようとした人たちも大量に命を奪われたことを考えると本当に辛い。そして、収容する側にもそれぞれに感情があり、気まぐれではあるかもしれないが心遣いを見せるところがあり、ナチスを扱う戦争映画でしばしば見せられるような、普通のどこにでもいるような人々が行う残虐行為の恐ろしさを感じさせる。

 

 そして、最後に収録されている家族のあとがき『エディ・デ・ウィンドの生涯』も、重いテーマを突き付ける。収容されている期間、命がけで相手を想い行動していた二人のその後は切ない。経験した出来事によるトラウマも本人を苦しめるし、生き延びた罪悪感も本人を苦しめる。そして、生還した人たちは、生きていくうえで『美談』とはならない選択をするしかないこともある。犯罪や不道徳的なことをしたわけではないけれど、生還者という背景を持つ作者に対する期待を裏切る行為によって非難される、というのも更に残りの人生を苦しいものにしたのではないかと思う。