CoffeeAndBooks's 読書日記

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映画を早送りで観る人たち

ニュース番組は私も1.5倍速などにしがちだけど、なぜかドラマや映画に対してはそれができないでいる。しかし、最近は倍速視聴だけでなく、会話のない場面はスキップしたり、事前に仕入れた盛り上がる箇所以外はスキップしたり、という見方があるらしい。

セリフですべて説明してほしい人のためにセリフが丁寧になり、結果、セリフのない場面はスキップされる、となると、それは映像でなくても良いのでは?という気もしてしまうが、とにかく消費しなくてはならない人たちはセリフをスキップして大量のコンテンツをこなすものらしい。タイパという新しい言葉を知り、気持ちはわかるけれど、寿命が伸びて、家電やグローバル分業のおかげで各人が生活のために使う時間も減少した現代社会において、これは少し寂しいなと思う。学生が忙しいというのは理解できるけれど、その楽しみ方をおとなになっても継続するのは少し悲しい。歴史の蓄積によって触れたいコンテンツが多すぎるという側面は私も日々感じているので、手っ取り早く内容を味わえたらな、と思うことはあるのだけれども。

もちろん、コンテンツをどのように消費するかは個人の自由であって、他人がケチをつけるのは筋違いだろう。映画を早送りで観る人たちは彼ら彼女たちの楽しみがあると思う。同世代の映画が好きな人たちと会話しても、プロの評論家のような人以外だと、共通の映画を見ていることが少なすぎて盛り上がらないことが多々ある。たいていの勤め人だと、月に2~4本くらいしか映画館には行かないし、休日にビデオ視聴するにしても旧作を思い出しながら見ていたりすると、おそらく世に出る作品のうち触れられるのは数%なので、重ならないのも無理はない。一方で、話題になる作品を一通りはこなしている人たちだと、「私も見たよ」と会話することができる。ただ、スキップしたシーンに重要なシーンが含まれていても『自分には気づけないので、そういうのはプロに任せればいいやと思っちゃう』という視点で見ていると、「私も見たよ」以上の広がりが楽しめなさそうだし、先に誰かの評価ありきで鑑賞することが常になると、自分の意見を表明して議論を楽しむことができる相手かどうかを確かめてからしか語り合えなくなるのかもしれない。そして、時には掘り下げた話をしようとする人は疎まれ、誰もが表面的な会話しか許容されなくなってしまうかもしれない、と思うと、華氏451度の世界みたいで少し怖い。