CoffeeAndBooks's 読書日記

日々の読書を記録しています

ミステリと言う勿れ

 カレーが大好きで、理屈っぽく少し変わった大学生が主人公。枕の草紙を引用しつつ、カレー日和だとカレーを作り始めるところから第1話開始。最初のうちは1話完結、前後編完結、で閉鎖空間での謎解きとちょっとしたお説教をするだけだったのが、広島に行く頃から連続ものに。結果、続きが気になって既刊をすべて読んでしまった。

 各事件の謎解きだけでは、少し物足りないところがあるけれど、実はある事件の被害者がほかの事件にも関係して、という人物関係の広がりは面白い。作者の1巻あとがきによれば、舞台劇のようなイメージの、閉鎖空間での会話だけのお話を意図しているそうで、確かに動きが少ない会話主体の展開。コマから読み取るよりも、文字で読める情報が多いので、普段から漫画をあまり読みつけない人にも読みやすいかもしれない。絵柄もきれいだし。

 この漫画のメインである説教は、青臭いところもあるけれど、今のところ作者の倫理観が共感しやすいものなので、私は読みやすかった。説教内容は、ジェンダー差別から、なぜ人を殺してはいけないのか、幼児虐待にどう対応するべきか、などのテーマまで。いつも女性が言う言葉を、女性向けの漫画の中とはいえ、男性に言わせるとなんだか新鮮だ。

 色々な話があるけれど、一番好きなのは4巻の牛田さん。この漫画は、常にたった一つの正義を振りかざすものではないところも個人的に好きなのだけど、やっぱり「世間一般としてあるべき行動」に目を瞑るかどうかは、こういうところだな、と。しかし、この話が後になってあんな事件につながるとは。

 また、2巻の新幹線の話は、少しシャーロックホームズのような謎解きが面白かった。しかも、これは漫画だからこそだな、と思う。最後の含みのダークさも、後を引く感じ。これが何かの伏線になっていたらすごいけれど、これは続く広島編の導入に過ぎないのだろうか。

 

ミステリと言う勿れ コミック 1-6巻セット

ミステリと言う勿れ コミック 1-6巻セット

  • 作者:田村由美
  • 発売日: 2020/02/10
  • メディア: コミック
 

  ところで、第6巻に紹介される漂流郵便局は実際のプロジェクトのようだ。私は特に出したい手紙もないけれど、少し気になる。

www.fujingaho.jp

 

ケーキの切れない非行少年たち

 非行少年が普通の人と違う(サイコパス的な)、ということを言う本ではない。医療少年院、女子少年院にて勤務経験を有する精神科医が出会った「反省以前の子ども」たちの実態と、著者による提言。

 

 本書によれば、凶悪犯罪を行った少年の中には、何故そのようなことを行ったのかと尋ねても、難しすぎてその理由を答えられないという子がかなりいるらしい。だから、更生のための内省や自己洞察ができない、反省以前である、と。保護者が子どもの発達上の問題に気づいて対処していれば治療等の手立てもあるようだが、保護者・養育環境がそういった対応をできない子どもたちが非行に走ることがある。

 かつての知的障碍者の基準は「IQ85未満」、現在は一般的に「IQ70未満」である。IQ70~84は、「境界知能」と呼ばれる。人数の割合としては、クラスが35名いたら5名。時代によっては障害と認定されるこうした人たちが、生き辛さを抱えながらも、普通の生活を送っている。明らかな障害が認められれば、何らかの支援を受けられたかもしれない人たちが、気づかれずに「勉強ができない」「対人関係が苦手」「スポーツも苦手」といった形で表出した部分が原因で、いじめに遭うリスクが高く、そのストレスによって更に弱い存在に加害しているという事実は、とても衝撃的だ。そして、いじめをしなくても、実は発達上の問題によってコミュニケーションが不得手な人たちに対して、私たちは必要な配慮ができずストレスをかけている可能性もある、ということ。

 例えば、ある事件の容疑者は軽度知的障害で療育手帳を有していたが、過去には陸上自衛隊で勤務経験があり、大型一種免許や特殊車両免許等を持っていたという。軽度の知的障害や境界知能の人たちは、周囲にほとんど気づかれることなく生活していて、何か問題が起こったときに「どうしてそんなことをするのか理解できない人々」に映ってしまう、ということだ。著者の見立てでは、実は虐待してしまう親のなかにも、こうした人々が含まれているのではないか、とも。

 考えてみれば、私の通っていた中学や小学校、特殊学級には入っていなかったけれど明らかに学習が困難な同級生がいた。田舎だったので、彼らはそういった事情がハンディキャップにならない職業に就くことができたけれど、例えば彼らがサービス業だったり、工程の複雑な製造業に就職したら、配慮が必要な人材だろう。でも、実際にそういった人たちを識別することはできないし、本人も何故自分がつらいのかを言語化することもできないので、ただただ難しい状況ですね、となってしまう。

 そういった意味で、犯罪者にも同情の余地のある人たちは多くいる。とはいえ、生き辛さを理由に殺人や性犯罪を起こされていては困る。しかも、後先を考えることはできなくても、弱いものを選んで犯行に及ぶことはできるのだから。実は、幼児に対する強制わいせつをする非行少年は、概して特別に強い性欲の持ち主ではないらしい。大人の女性には興味がないし、「9歳を超えると怖い」そうである。こうした少年は、対人認知の歪みやアダルト動画等に影響され、「この子だったら自分のことを理解してもらえる」「強姦は実は喜んでいるんだと思った」という悍ましい考えを持つにいたる。そして、実際の犯行の動機として、最初は「性欲」と言ったりもするが、最終的には「ストレスの発散のため」となるらしい。いじめ被害等のストレスが原因で、自分よりも確実に弱い存在に対して、一生を台無しにしたり、命を奪うような犯行をはたらいている。こうした人たちが加害者にならないように、適切な対処をする必要がある。

 その対処として、「褒める」「話を聞いてあげる」は、根本的な解決にはならなくて、必要なのは社会面の支援、という具体的な提言は多くの人に広めたい。社会面の支援は、「対人スキルの方法、感情コントロール、対人マナー、問題解決力といった、社会で生きていく上でどれも欠かせない能力を身に着けさせること」である。これらは、集団生活を通して自然に見つけられる子どもも多いが、発達障害や知的障害をもった子どもが自然に身に着けることは難しい、と。でも、自然に身に着けることが難しいということは、適切な方法をとれば身に着けることができる、ということ。本書で紹介されているコグトレ(1日5分で日本が変わる)が広まって、効果が出ると良いと切に思う。犯罪者を納税者に。

獄窓記 (新潮文庫)

獄窓記 (新潮文庫)

 

 

コリーニ事件/Der Fall Collini

collini-movie.com

 ドイツの現役弁護士である作家フェルディナント・フォン・シーラッハが原作の、法と正義のジレンマを扱うリーガルサスペンス。感想にネタバレになってしまう部分があるので、事前の余分な情報なく映画館に向かいたい方はここまで。上映している映画館は少ないけれど、とても素晴らしい映画。

 

 この物語を、ドイツ人が描いたことに衝撃を受ける。日本では、戦争に関係する映画というと、我々の被害を語るものか、英雄に関するものが多いけれど、ドイツ映画はドイツの過去に正面から向き合っている印象。そして、立派な人物、良き市民に、過去を遡ると戦時中のナチス協力や戦争犯罪が出てくることを描き、関係者の苦悩を描いている印象。もちろん、過去を美化するものがないわけではないけれど。

顔のないヒトラーたち/Labyrinth of Lies - CoffeeAndBooks's 読書日記

ヒトラーを欺いた黄色い星/Die Unsichtbaren - CoffeeAndBooks's 読書日記

手紙は憶えている/REMEMBER - CoffeeAndBooks's 読書日記

 

 さて、本作について。主人公はトルコ系の新人弁護士ライネン。資格を得て3か月、ライネンは、殺人事件の国選弁護人を務めることになる。実はその被害者が子どもの頃にお世話になった富豪であり、夭逝した友人の祖父、元恋人の祖父。通称の名前と法律上の名前が異なることから最初は知らずに引き受ける。

 被告はドイツでまじめに働いてきたイタリア人、とされる。検視の結果、かなりの憎悪を持って臨んだ犯行と見え、かつ、凶器や被害者に会った経緯から計画的な犯行と見える。しかし、その動機は被告の口から語られることなく、謎に包まれたまま。

 ある会話を糸口に、被告の過去をライネンは調べ、かつての恩人の過去に行きつく。そして、当時の時代背景を考慮すると正しかった立法によって、法的には正しく正義が達成されなかった事実にも。法廷での法律と正義の議論は、冷静だけど熱い。プロフェッショナルとして、過去に自分が関与した仕事を否定できるか、という観点でも。

 最後に被告のコリーニが選択したことは、これは問題提起のフィクションであるため慎重になったのだろうか。実際、この映画を機にドイツの連邦司法省内で調査チームの立ち上げにつながり、という紹介がされていた。ただ、問題の法律や関係する議論が少し調べただけではよくわからず、残念。これはドイツ語が分からないと調べられないのだろうか。

 

 原作は戦後60年の2011年に発行された。原作者のフォン・シーラッハは、戦犯として服役した元ナチスの将校を祖父に持つ。なお、祖父も"Ich glaubte an Hitler" (ヒトラーを信じていた)という書籍を生前に刊行しているが、英訳・和訳はなさそう。

 この機に原作も読んでみたいところ。原作と映画を比べてみたいのは、被害者マイヤーの最期について。映画では、負い目があったのかなと示唆するような場面があったけれど、これについてどう書かれていたのだろう。

 

新・トルコで私も考えた2020

 おしゃれな雰囲気と少し大人っぽい内容が大好きだった高橋由佳利氏の一人旅から始まる、トルコと日本を行き来する人生が綴られるエッセイ。

 掲載開始から四半世紀。最初は旅行者、短期滞在者の視点で描かれていたトルコが、生活者の視点になり、離れて暮らすホームのような位置付けになり、とトルコ自体の変化もあれば、作者とトルコの関係の変化もあって、シリーズ通して読んでいると非常に感慨深い。

 最新刊は、25年ぶりの同窓会や息子さんの就職活動、家族全員のリモート化、老後に向けたお話など、単純なトルコ情報や異文化交流としての面白さだけでなく、帰属意識アイデンティティについて、いろいろと考えさせられる一冊だった。息子さんの就職活動のエッセイの話。両親の祖国のどちらに言っても外国人扱いをされる、という話は過去に習っていた語学の先生も同じような状況を話してくれたことがあったけれど、深く聞くことができなかった話題だったので、特に興味深かった。もちろん、単純な話ではないし、似たような環境に見えても経験することや感じ方は十人十色で違うものだとは思うけれど、考え方の一部を知ることができたのは貴重だと思う。 

 

ハニーランド/Honey Land

honeyland.onlyhearts.co.jp

 日本では馴染みの薄い国、北マケドニア。少し前まで、マケドニア旧ユーゴスラビア共和国と名乗っていたが、ギリシャとの国名を巡る争いを避けEU加盟を進めるため国名を変えたと聞く。国名を変え、NATOには加盟したようだ。

 

 そんな来歴のマケドニアであるが、この映画で焦点をあてられるのはBalkan Turkicと呼ばれるトルコ語の一種を話す人々。この地は、長きにわたりオスマントルコ支配下にあった地でもある。監督はマケドニア人で、インタビューによれば、トルコ語は理解しないらしい。同じ国の中で複数の言語が共存し、しかも相互に理解できないというのはどんな感じなのだろう。

“We don’t understand Turkish. So all the scenes with the dialogue, particularly, we didn’t know what’s going on there. First we spent three and a half months, four months, just watching the material, the whole material. And then we started editing on mute just the visual narrative,” (我々はトルコ語を理解しない。だから、すべての場面において特に会話については何が起きているのかわからなかった。最初に過ごした3か月半~4か月の間、我々はただ事象を見ていた。そして、音を消して視覚的な物語を編集し始めた)

How ‘Honeyland’ Documentary Found Its Protagonist in Rural Macedonia | IndieWire

 

 さて、そんな中で撮影されたこのドキュメンタリーは、自然の中で蜂蜜を採取して暮らす養蜂家とその母が主役。首都スコピエから20㎞ほどの地域らしいが、電気も通じていないようで、養蜂家の暮らしに登場する光は、太陽の光と、蝋燭や焚火。我々の想像を超える自然な生活をしている。

 養蜂家は「半分はじぶんに、半分はあなたに」という信条の元、養蜂を営む。そんな養蜂家の暮らす家の隣の敷地に、ある日突然トレーラーで引っ越してくるノマドの大家族。彼らは牧畜をしたり、畑をしたり、そして養蜂家に教えてもらいながら養蜂も始める。最初のうちは養蜂家の教えを守り欲張らない養蜂をするが、買い付けにやってくる商人にそそのかされて段々と好ましくない行動に出る。このやり取りや、一家の中でも起こる衝突などは、本当にドキュメンタリーなのか、と疑うくらいに生々しい。これは撮影を通じて育んだ信頼関係によるものなのか、登場人物が素朴であるためなのか。

 それにしても、たった1家族の小規模な養蜂でも、やり方を間違えばその土地の自然を破壊してしまうということに衝撃を受ける。世界で起きている環境破壊の一例として、非常に示唆に富んでいる。上映する映画館が限られているのが残念。

バルカンを知るための66章【第2版】 (エリア・スタディーズ48)

バルカンを知るための66章【第2版】 (エリア・スタディーズ48)

  • 作者:柴 宜弘
  • 発売日: 2016/01/31
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

女帝 小池百合子

 現職都知事の半生を、都知事に近かった人々からの証言と過去の著書や報道情報を基にまとめた一冊。私が物心ついた頃には既に政治家だった方なので、カイロ留学時代やキャスター時代のエピソード等は非常に興味深い。しかし、著者は何をモチベーションにこの本を書いたのだろう。小池氏が人間として難があると言い続け、彼女に対する怨念のようなものは感じるのだけど、告発しなければいけないような疑惑をつかんでいるわけでもなく、謎の秘書について触れはするが結局正体不明のままで筆をおかれている。また、主な情報源は小池氏のカイロ時代の人脈が多く、政治家としての小池氏を知る人の発言が少ないようだ。

 政治家になる人間には、ある程度の自己顕示欲があるだろうし、上昇志向がないと大臣にはなれないだろう。人脈は政治の基本。男性だって女性だって、権力があって声の大きな人の周りにすり寄って、のし上がる。そして、本当に譲れない思想信条のコアと選挙に勝てるかどうかのバランスを観ながら、所属する政党や派閥を決めたり変えたりするものではないかと思う。自民党一筋と盲目的に言える政治家のほうが、政界渡り鳥よりも気持ち悪い。小池氏の政策に関する発言が少し軽いところがあるのは、私も否定はしないが、政治家は国民の声を集約して実現するものである以上、自身の信条だけでなく、時世を読んで求められることをする、というのは、良い面もあるのではないか、とも。

 本書は、カイロで小池氏と同居していた女性からの告発が元で取材が始まったものらしい。ただ、なぜ小池氏が政治家としてふさわしくないのか、その危機意識が分からない。小池氏に対しての私怨があるなら、そこを書いてほしいものだ。著者インタビューでも、『芦屋令嬢のふりをしているが実態は…』と言った発言もあるけれど、もしかして成り上りの女が許せないだけだったりしないか。芦屋といっても六麓荘がすべてでないことは誰もが知っているけれど。特に、土井たか子との女性同士の戦いとなった選挙戦に関する記述で気になったのが、『土井は経済的に恵まれたインテリ家庭で育ち…』のくだり。土井たか子は私も尊敬する政治家の一人で、思想信条に同意するかどうかを別にすれば評価する人が多い政治家だ。その彼女の家庭環境をここで紹介する必要があったのだろうか。また、小池氏に対して民主党が立てた対立候補についても『江端は経歴もしっかりとしており、小池氏よりも七歳若く、理知的な女性』とある。著者の主観的な表現に映るのだが、当時の報道等で使われていた表現なのだろうか。

 なお、本書には『容色が衰えて男に嘲られる中高年女性たちは自分たちを小池に投影』という有権者を馬鹿に仕切った記述もある。私も中年に差し掛かった女だが、小池氏に投影する自分の姿などない。同じ女性として、女性の都知事が誕生すればよいとは思ったし、国政で大臣を務めた政治家ならその力量があるのではないか、少なくとも良いブレーンを連れてくるだろう、とは思った。実際に、今回のコロナ対策にしても、完璧には程遠いが、非常事態宣言に向けた国の焚き付け方など優れたところもあったように思う。

 ところで、カイロ時代に同居していた女性は、いろいろなマスコミ関係者に手紙を送ったが無視された、とある。小池氏を攻撃したい人たちは多くいたのに、どうして食いつかなかったのだろうか。攻撃に使えるほどのネタとは判断されなかったのだろうか。また、この元同居人が所在を明かしたくないと怯えていると言うが、一自治体の長の学歴詐称の証言をするだけにしては、少し極端な気もする。 

女帝 小池百合子 (文春e-book)

女帝 小池百合子 (文春e-book)

 

 ロシアのエカチェリーナ大帝、中国の則天武后、我が国の持統天皇など、女性の為政者たちは、男性の為政者たちと同様に欠点がありつつも、指導力を発揮している側面があるのも事実。しかし、女性の為政者たちは、悪い側面ばかりに焦点を当てられ、後世の評価は貶められがち。

エカチェリーナ大帝(上): ある女の肖像

エカチェリーナ大帝(上): ある女の肖像

 
女帝エカテリーナ (1) (中公文庫―コミック版)

女帝エカテリーナ (1) (中公文庫―コミック版)

 

 

フェイクニュース時代を生き抜く データ・リテラシー

 元ニューヨーク・タイムズ東京支局長による、フェイクニュースに惑わされず情報を収集、取捨選択するための手法や情報源の紹介。特に日本とアメリカのニュースを主に得る必要のある人には便利な一冊。

 本書で紹介されている、エリック・シュミットの言葉で、『現在を生きる人類はたった2日間で人類の文明が始まってから2003年までに生み出された総量と同じだけの情報を生み出している』そうである。

 その昔、阿部勤也の『世間を読み、人間を読む』の中で紹介されていた『プロレタリアートと古典』という論文で、「ゲーテの著作集は十巻本で一巻が訳五百頁、一頁が四十行あり、速く読んでも、およそ百八十六時間かかる。シラーの著作集はその半分で、劇作家のレッシングはゲーテの四分の一。ドイツの教養人として読まなければならない古典の頁数と消費時間を計算していくと、十二歳から四十歳までの間に、一般の人の読書に使える時間は約九千日ある。しかし、どうしても読まなければならない必須文献だけで、九千百九十五日が必要で、百九十五日も足りない」という内容が記述されていた。まあ、教養のための読書と情報収集は少し違うけれど、昔の人たちの読書が少ないコンテンツにじっくり向き合えることに驚いた。一方で、歴史上生み出されたのと同じくらいの情報が日々生み出されていることを考えると、どうしても読み方は浅くなる。なので、情報収集と処理の技法を身に着けていないと、誤報や虚偽の情報を信じてしまうこともあるのだろうと思う。

 本書では、どうやってフェイクニュースが発生したか、という経緯やフェイクニュースの特徴が解説される。また、日米のメディアの特徴が紹介されており、バランスをとるために比較対象とするべきメディアを知ることができる。今まで意識していなかったけれど、アメリカの新聞社はデジタル化が進んだことによって、スマホ版やWeb版のほうが今や紙面よりも情報が充実しているというのは、非常に面白い。これなら日本にいてもリアルタイムで現地と同じ情報が得られる。そして、独立系のメディア(AXIOS等)についても知識が得られたので、ありがたい。 

 最後の日本のジャーナリズム復活のための論考も非常に興味深いし、考えさせられる。ソーシャルメディアで起こる事件や好ましくない出来事と、自由度の関係については早々に議論を進めるべきだと私も思う。Twitterでもヘイトが垂れ流されているし、明らかに嫌がらせ的なTweetも放置されていたりもするし。でも、下手に規制すると言論統制というのもそうで、特に今の日本だと規制によって有用な情報が発信されなくなるくらいなら玉石混淆のままの方がましなのか、とか。受け手のリテラシーが十分にあれば。